※この記事は勉強法と無関係です。司法試験については多少書いてあります。
誰も気にしてないと思いますが、前回の更新から少し間が空きました。司法試験の結果発表まで2週間を切り、不合格だった場合にすぐアクセル全開で勉強を再開できるように、思い残すことがないよう過ごそうと思ったからです。
というわけで、司法試験が終わったら絶対に読みたいと思っていた『鬼滅の刃』を、むさぼるように読んでいました。会社の先輩にネタバレされた通りの結末で、その事実に一番驚きました。(心臓が口からまろび出るかと…)
ここで、私の大好きな『ONE PIECE』と比較検討しながら、少しだけ「令和の時代にひろく受け入れられる主人公像」について書こう…と思ったら余裕で5,000文字を超えてしまったので、一旦全部消しました。
炭治郎は、同調圧力がなく、プロジェクト単位で働き、人の話をよく聞き、戦闘中でも思考を続け、昔のことをよく思い出し、人を思いやり、「やるべきこと」をやり、わずか23巻で強くなる、“和風”で、筆マメで、家族思いの、いいやつです。
私も週刊誌で読んだ程度のことしか知りませんが、またいつの日かワニ先生の次回作が読みたいものです…
…と、あやうく前置きだけ書いてアップするところでした。危ない危ない。本題に入ります。今回紹介するのは、もう1つ、司法試験が終わったら絶対に読みたいと思っていた『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)です。結論だけ先に書いておくと、とてもおもしろかったです。法律を学ぶすべてのひとにオススメしたい。
目次
一般教養科目という現代の悲劇
令和4年度の予備試験の論文式試験から「一般教養科目」が廃止され、「選択科目」が導入されます。(短答式試験には残るようですが、あんなの、文系学生にとっては「運試し」でしかないですよね。)
そのため、ここで一般教養科目について書いても何の役にも立たないわけですが、「うわぁ、過去の受験生はこんな意味不明な罰ゲームを受けさせられていたんだ…」と感じ、自らの相対的幸福度を高めてもらうには良い材料だと思います。
別に読まなくても支障ありませんが、試験問題の設問部分と、ほとんど何も述べていないに等しい「出題の趣旨」が司法試験員会のホームページに掲載されています。下記リンクの26ページ以降です。
→ https://www.moj.go.jp/content/001340861.pdf
ただ、上記書面には著作権の関係で原文が掲載されていません。出典は新潮社版・福田恒存の翻訳によるものです。引用されていた部分は142〜147ページだと思います。
アンティゴネ vs. クレオン
それまでの一般教養科目では、センター試験で言うところの「評論」分野の出題が中心でした。私は模試でしか対策していませんでしたが、当然ながら、模試の問題も評論でした。
しかしここに来ていきなりの戯曲、しかも突然「アンティゴネ」だの「ポリュネイケス」だのカタカナが出てきて、天を仰いだ受験生がほとんどだと思います。私は、別の意味で天を仰ぎました。それは、「ネタ本」と思しき本を購入して、目次まで読んで、本棚に眠らせていたからです。
『誰のために法は生まれた』は、ローマ法が専門の法学者・木庭顕先生が、中高生を相手に、映画や戯曲等の古典を題材にして行った講義を再構成した本です。そのなかの題材の1つが『アンティゴネー』(こちらは岩波版)でした。
アンティゴネは、フロイトの「エディプス・コンプレックス」で有名なオイディプス王と、彼の「母かつ妻」のイオカステとの間に生まれた娘です。祖国を追われた兄ポリュネイケスが、敵国の軍隊を引き連れて攻め込んで来て、死亡します。その遺骸を埋葬してはならないと布告を出すクレオンと、埋葬したいアンティゴネとの論争。
試験問題としては、「アンティゴネとクレオンの議論の対立軸を示して、同じような対立を生じている現代の社会現象をあげて論ぜよ」という問いです。あなたなら、どのような対立軸を示しますか?
哲学者ヘーゲルも含め、通説では、「親族」代表のアンティゴネ vs.「国家」代表のクレオンという対立軸があげられるようですが、アンティゴネを血縁主義者とみなす解釈に木庭先生は疑問を呈しています。
ちなみに私は、「伝統」と重んじるアンティゴネ vs.「現在」を重んじるクレオンという対立軸をあげて、C評価でした。論外。(再現答案は他に晒さない、という約束で某予備校に提出しているため、ここではこれ以上踏み込んで書きません。まあ、C答案に興味はわかないと思いますが…)
では一体、木庭先生はどのような対立軸を示しているのでしょうか? 「ここまで読んで、気になった方はぜひ本を読んでみてください〜」という詐欺師的な説明で逃げたい気持ちでいっぱいですが、少しだけ書いてみます。
対立軸は、「個人」を象徴するアンティゴネ vs.「集団」を象徴するクレオン、です。
まず、集団のほうがわかりやすいので先に書くと、クレオンは、裏切り者は「敵」であって「味方」ではないから埋葬しない、という形で、敵味方の「集団」を基準に議論しています。
これに対して、アンティゴネは個人を象徴します。兄は死によって完全に「個」となりました。死んだら誰ともつながることができなくなるからです。そんな「個」となった者への尊重が、「弔う」こと、すなわち埋葬する行為に表れています。
そんな、かけがえのない(=代替がきかない)「個」を尊重することから生じる連帯こそが、デモクラシーの基礎になる。集団のために個人に犠牲を強いるような“連帯”はデモクラシーの基礎にならない、という結論です。
どうでしょう? 『誰のために法は生まれた』がネタ本だというのは私の憶測にすぎませんし、この対立軸が唯一の「正解」というわけではないと思います。しかしまあ、一体、どこのハイパー受験生がこんな対立軸で答案を書けると言うのでしょうか。
(ちなみに、ネタバレするので「どこ」とは言えませんが、『鬼滅の刃』でも、鬼殺隊と鬼がこの対立軸で議論をする場面が出てきます。こういう普遍的なテーマを しれっと入れ込んでくるところが『鬼滅の刃』の凄さですよね…)
誰のために「占有の訴え」は生まれた
司法試験に合格するまではあんまり法律のことを書かないようにしようと思っていたのですが、今回は少しだけ書きます。物権法を勉強していると、民法202条2項という、謎の条文に出会いますよね?
占有の訴えについては、本権に関する理由に基づいて裁判をすることができない。
いやいや、不法占拠されてるんだから、所有権を主張するに決まってんじゃん!と。
この条文について、さらに謎の判例が出てきますよね?
占有の訴えに対し防御方法として本権の主張をすることは許されないが、これに対し本権に基づく反訴を提起することは、禁じられない。(最判昭40.3.4)(『判例六法』(有斐閣)からの引用)
いやいや、だったらさっきの202条2項いらないじゃん!と。
この判例、短答式試験の過去問を演習していると遭遇するので、いつも意味わかんないなあ、と思いながら解いていました。しかし、当たり前のことを言ってるだけの判例だから、選択肢間違えないし、まあいいか、と割り切っていました。
ところが、木庭先生はこの判例に対して、「当たり前」どころか批判的です。この占有状態を一時的に保護する意識があるかどうか(少なくとも問題を吟味する意識があるかどうか)が「社会の質を決める」とまで言っています。
条文や判例のことは無責任に書きたくないので、ここは「気になった方はぜひ本を読んでみてください〜」という詐欺師的な説明で逃げます。すみません。いつか私も自分の言葉で説明できるよう、現在、ギリシャ神話から勉強し直しています。
法律学習はつまらないのか?
この本には随所で、法を学ぶことへの愛と、現在の法律教育への絶望感が滲み出ています。例えば、東大の本郷キャンパス図書館で本やノートの盗難が多いというエピソードを紹介した後、こんなことを言っています。
なんでそういうことになるかというとね、無茶苦茶に競争している。盗めば競争に勝てるというわけでは全然ない。当たり前だ。でも、クソクソな気分で、だんだん人間自体がクソになっちゃうわけだ。クソパターンもいいところだ。(129ページ)
すみません、すごく良いことを言っている文章の、おもしろい部分だけを抜き取って引用してしまっています。(勢いがすごいですよね。)私も再来週、司法試験に不合格だった場合にクソクソのクソ人間にならないよう、心を強く保って結果発表を見届けようと思いました。