司法試験予備試験に1年合格したペンギンの備忘録

司法試験予備試験に1年合格したペンギンの備忘録

文学部卒。元会社員。2019年夏頃から勉強を始め、2020年度の司法試験予備試験・2021年度の司法試験を通過しました。

伊藤真はえらい

※この記事は勉強法や司法試験とそこまで関係ありません。予備校選びの参考になるかもしれませんし、ならないかもしれません。

 

 2回目ワクチンの副反応でしばらく寝込んでいました。私は体質上、平熱が37度近くあるかわりに(?)、38度以上の高熱を出すことがありません。少なくとも、記憶の存する範囲では皆無です。インフルエンザにもかかったことがなく、「ワクチンも大丈夫だろう〜」と完全にナメていました。

 ワクチンの恐怖を煽るようなことは書きたくないのですが、なぜか「自分は死なないという謎の自信がある」とタカを括っていた私のような人間に対して、当然の注意喚起をさせて頂きます。高熱出して寝込む前提でスケジュール組んだほうがいいと思います。

 あー、頭痛い。

 さて、前回の記事で、このブログは「ちょっとした意図」があって記事のタイトルをわかりにくくしている、と書いたのですが、今回の記事はその「ちょっとした意図」に関するものです。どや顔で手の内を明かすのもダサいですが、思わせぶりなことを書きっぱなしにするのもキモいので、書きます。

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(Pixabayからのイメージ画像)

目次

 

学びとは何なのか?

 私はもともと、内田樹さんに憧れてブログを書き始めました。ネット上では「政権に批判的なツイートをするおじさん」というイメージしかないかもしれません(?)が、もとは長らく神戸女学院大学で教鞭をとっていたフランス現代思想の専門家です。現在は「思想家」とか「武道家」を自称していた気がします。

 彼は長らく、「学び」が「消費行動」化することに対して、警鐘を鳴らしています。具体例が「シラバス」です。大学に進学すると、講義予定がびっしり書かれたシラバスが配られますよね。学生はあれを読んで、まるでカタログから商品を選ぶように講義を選びます。そして、商品から期待する効用が得られると満足し、商品に瑕疵があると文句を言う。

 いやいや、高い学費払ってんだから当たり前じゃん!と思った方は、おめでとうございます、立派な消費者マインドです。(まあ、私も直感的にはそう思ってしまいますが…)

 では、「学び」ってどういうものなんでしょうか? 大学入試の現代文で頻出と噂の『先生はえらい』(筑摩書房)という本から引用します。

 ものを学ぶというのは定額の対価を投じれば相当額の商品が出てくる自動販売機を利用することとは違います。

 なぜなら、真の師弟関係において、学ぶものは自分がその師から何を学ぶのかを、師事する以前には言うことができないからです。(略)

 学ぶ者の定義とは、「自分は何ができないのか」「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。

「それじゃ、何を学んでいいかわからないよ」と文句を言うひとがいるかも知れませんが、これでよいのです。ことの順逆が違っているように聞こえるでしょうが、弟子になるまでは(あるいは師のもとを去るまでは)、弟子は自分の前にいる人間が師であるということのほんとうの意味が分からないのです。(169ページから引用)

 これをブログの記事に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?

「うーむ、何かよくわからないけど、こいつの記事を読めば何か得られるかもしれない。よし、読んでみよう!」そう思って読んでみて、「おお、この文章はまさに自分のために書かれたものに違いない!」と思ってもらうこと。なかなかそういう信頼関係を築くのは難しいとは思いますが、目指しているのはそういうところです。

 そんなわけで、このブログの記事のタイトルでは、あらかじめ「こんな効用がありますよ!」という商品説明をしないようにしています。それに、思いがけず良いことが書いてあったほうが「お得感」もありますしね(これぞ消費者マインド…)。

 以上が、前述の「ちょっとした意図」を大袈裟に書いてみたものです。「師」とか「学び」とか、偉そうなワードで不快にさせてしまったら申し訳ありません。

伊藤真のカリスマとは何なのか?

 司法試験の受験指導校・伊藤塾の塾長である伊藤真は、端的に「カリスマ」と称されることの多い人物です。この「カリスマ」って一体何なんでしょうか?

 前掲『先生はえらい』からふたたび引用します。

 教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。

 ふたりの先生の違うとことはここです。ここだけです。

 ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレヴァス」があります。(31ページから引用)

 伊藤真は、耳にタコができるほど「合格後を考える」というワードを口にします。実際、講義では「法律学がいかに複雑怪奇か」ということを、言葉を尽くしてわかりやすく語ります。彼は憲法の伝道師を自称していますが、私は刑法の講義の際にそれを感じました。

 ふたたび『先生はえらい』に戻ります。

 内田樹さんは、師弟関係がある種の「美しき誤解」に基づくものである、という点において、恋愛関係に相似すると言っています。ちょっと強引かもしれませんが、この辺に「カリスマとは何か?」を考えるヒントがあるのではないかと思います。

 三島由紀夫の『夏子の冒険』(角川書店)という小説には、主人公の夏子が、喫茶店の2階の窓から道行く男たちを指さしてこんなことを言うシーンが出てきます。

 だってあの中のどの男のあとについて行ってもすばらしい世界へ行ける道はふさがれていることがよくわかるもの。男の魅力ってそれ以外に何があって? ただ黙ってついてゆけば、今まで想像もしなかった新しい世界へつれて行ってくれるという魅力以外に。

 何が学べるかわからないけど、今まで想像もしなかった新しい世界へつれて行ってくれるような気にさせる力。これを「カリスマ」と定義すると、私は伊藤真ほどカリスマを持った人物に出会ったことがありません。

 もともと文学部で趣味の延長みたいな勉強しかしてこなかった私にとって、法律学なんて絶望的につまらないものにしか見えていませんでした。せいぜい資格取得の手段。しかし、伊藤真の口から語られる法律学の世界は、とても素敵ものに見えたのです。

 というわけで、カリスマ、もうほとんどその1点の理由で私は伊藤塾に入塾しました。結局、伊藤真の講義が聴けるのは「基礎編」の「憲民刑」だけで、そのほかの科目と「論文編」は、別の講師の講義でしたが。まあ、そういう細かいことは抜きにして、私は伊藤真について行こうと決心した日のことを後悔していません。

この記事は何だったのか?

 長々とわけのわからないことを書いてしまい、失礼しました。

 無事に司法試験に合格したものの、待てど暮らせど伊藤真との対談のオファーが来ないので、頼まれてもいないのに勝手に伊藤塾の宣伝文を書いてしまった次第です。(私は「属性」が魅力的ではないので、たぶん今回も合格体験記は使われないんだろうなあ…まあ、こんなわけのわからない宣伝文を書かれても困るんでしょうけど…)

 1ミリもわからなかった、という方は、すみません、私が高熱にうなされて変なことを書いてしまったんだと思って憐んでください。次回以降、万全の体調で、まともなことを書けるように心がけます。